徒然スマイル

海外生活、仕事について、等

ドラゴンボール

当事者でいた頃はそんな事気にも留めなかったけど、

時がたって振り返ると、あ、こういうことだったのか、という事がたまにあります。

 

東京での部署のメンバーは、当時、他部署の人たちから、

よくもそう色んな玉を揃えてきた、と驚かれたメンバーでした。

一見、見た目も雰囲気も、バラバラ。

同じ部署の人間とは思えないのです。

 

例えば、

アメリカ担当営業はアメリカ駐在経験者、30代前半。アメカジを毎日着せ替え、髭をきれいに生やしていました。シャツも柄物。鞄などの小物にこだわっていました。

その人の担当する日本のお客様もアメリカ関連の仕事なので、受け入れられるのです。

半面、製造業等の日本の名だたる有名企業には受け入れられないので、

お客様層は偏っていました。

イギリス、欧州担当は、ヨーロッパ留学経験者。見た目上品で、綺麗な英語を話しました。シャツは薄いブルーなど。柄物は着ません。

香港担当は、金額勝負な感じの普通のサラリーマンの様相。紺のスーツ、白いシャツ、普通のネクタイ。日本の一般的にイメージするサラリーマンの格好です。

インド人もいましたし、業務から来たばかりの私もいました。違うスタイルの営業をするという意味で、異色、玉の種類が増えた、ドラゴンボールだよ、と周りは言いました。

クマ上司は色んなタイプの部下を抱え、強いチームを作りました。

色んな案件に、対応できるのです。

 

そんな中、留学や駐在などの海外経験者は 外人上司の扱いが上手く、

毎月さほど新規の仕事を取れなくても責められず、何かとお話の相手をしていました。

英吾ができるということではなく、コミュニケーションの取り方、関わり方が上手いんですね。会社とはそういう事が大事なのですが、当時の私はそういうことに気付かず、

私は上司にあまり好かれていないと思っていました。

そう思いながら、ただ毎日、仕事をこなしていました。

 

暫くするとどんどん仕事が増えていき、遂に他部署から上司に、手が回らなく人が足りなくなるという報告が行くようになりました。他部署からすれば嬉しい悲鳴で、私の事を少しでも良く言おうとしてくれたのですが、夕方会社に帰ると、大きなクマちゃんが、なぜ先に報告に来ないのかと、のしのし歩きながら言いに来ることも何度かありました。

 

他部署から仕事が増えたと報告が来る前に、私から直接報告が欲しかったのです。今思えばそうしなければならないのですが、好かれてないと思ってたので、ちょっと近寄りがたいのと、契約した仕事がそこまで増えるとは、想像できなかったのです。

それ程今まで手の付けてないエリアは、仕事の伸びが著しかったのです。

ブルーオーシャンですね。

 

仕事は増えて、社内から認められるようになっても、クマ上司とのコミュニケーションは最悪ではないけど良好でもない状態が続きました。

幸い評価は正しくしてくれましたが、

コーヒー片手に冗談を言い合う留学組、駐在経験組のようになれず、

羨ましく思う日々が続きました。

 

今日はこの辺で。

今日も読んでくださって、ありがとうございました。

 

 

上司アレルギー

上司。

大好きと言うよりは、あまり好きじゃない、嫌い、とネガティブな声の方が多いんじゃないでしょうか。

振り返ると、私も地元に居る間は、そうとしか思ってませんでした。

 

20代前半の時の上司は、

日本人お兄さん(30代前半)、日本人おじさん上司(40代)、

お姉さん上司(3歳上)、おばさん上司(40代前半)。

 

当時から女性管理職がいるのは外資系だったからですが、

当時は、女性管理職はキツク荒っぽい感じ、たばこもお酒も男性並み、

電話はつねに喧嘩口調、歩くときはドスドスと周りに威嚇。

なので、20代後半になる前に、女性社員は大体、結構婚退職を考えました。

あんな風になりたくない、と思うのです。

 

私も同じように思いましたが、結婚は自分だけの意志ではどうにもなりません。

毎日業務をこなし、週末を楽しむ日々の連続。

そしてある日、東京に移動の話があり、引き抜いてもらえたのです。

引き抜いてもらえた、と思うのは、後々の人生にいい影響があったと思うからです。

 

人事の後ろでいたのが、あのクマのような外国人上司でした。

彼とはその前に一度も、接点がありません。

メールでさえもです。

驚きでした。

後で思えば彼のスタイルですが、周りから色々聞いて、決めたらしいです。

外国人ネットワークです。

 

地元にいた時、月に数回かは東京から出張の人たちが来たりしてたのですが、

その時でも彼らは色々観察してるのです。

そんなこと気にせず、現場は忙しく業務するのですが、

良いことも悪いことも、東京に戻った時に報告するのです。

それがマネージャというものですよね。後々、自分がその立場になって分かるの

ですが、その時は分かりません。

 

名前を何回か聞くと、人の心に残るものです。

そして追加で、他の外国人マネージャーからの依頼で、少し調べ物を手伝ったということも彼の耳に入り、私は東京に移動になりました。

調べ物を依頼してきた人物は、

後に社長に昇進した人ですが、

当時30代、外国人チームでさえも想像していない昇進でした。

そして、その調べ物の仕事は、当時の日本人偉いおじさんが、面倒くさいと誰かに

振って、そしてまたその人も、お金にならないと私に振ってきた仕事でした。

社長候補からの依頼と知ってたなら、絶対に来なかった案件でした。

偶然が重なりました。

 

大きなクマ上司は、周りの意見も尊重してその人を見ていくというスタイル

の人だったので、周りが評価してくれ出すと、とてもやりやすい上司でした。

ただ、大きくて怖くて、帰国子女組のようにすぐそばに行って談笑できず、

なんとなく距離はありました。

 

テデイベア

見かねて、他部署の外国人たちは、大きなテディベアだと思えばいいんだよ、

と言って笑わせてくれ、あの子は嫌いじゃなくて怖がってるんだ、

と逆にクマ上司に言ってくれました。

お陰で関係は悪化することありませんでしたが、上司の立場からすると、

自分から寄ってくる部下の方がかわいいのは人情ですよね。打ち解けた感じにはなれず、彼はずっと何となく気が重い存在でした。

 

ただ彼以降、もちろん彼を含めですが、

上司というものはとにかく学ぶべきものがある存在、という風に見方が変化しま

した。こう思えるようになったのはラッキーで、グンと成長できたと思います。

 

後に海外では、色んな国籍の人が私の上司になりましたが、

みんなから学ぶ大切さを知ってたので、すんなり受け入れることができました。

 

その後、テディベアは部署が大きくなったため私の上上司になり、

上司には同僚が昇進することになりました。

以前なら、私の方が営業としての成績がいいのにどうして?と思ってたところですが、

とにかく、何か学ぶとこがあるからこの人は上司になったと思い、

いいところは真似るようにしました。

 

組織の変更が多く、数か月間だけインド人が上司になることもありました。

彼からは、値段交渉の仕方、お客様の対応を学びました。

媚びるのではなく、とにかく丁寧な言葉(日本語でも、英語でも)を話すので、

相手は気分が良くなって、難しい交渉も最終的にはイエスと言うのです。

彼は妥協点を見出すように仕向けるのが、上手いのです。

真似ない訳にいきません。

 

上上司になっても、テディベアは遠くから見ていました。

花型先輩がいい案件を独り占めの時は、少し、私に振るように指示し、

彼のところにくる新規案件を、少し振ってくれることもありました。

私の力以上のものですが、少し頑張ればできる、そのあと少しができるかどうかにかなる、という案件でした。成長できるように、わざとそういう案件を選ぶのです。

 

もちろんそういう案件は、なかなか契約に辿り着けません。

提示した金額を了承してもらえなかったり、サービスへの要求度合が高く、

他部署との調整に時間がかかりました。

偉い立場の人からの依頼なら、社内もすぐ調整をするところですが、

新しい営業担当の私となると、大きな案件でも、まさか取れないだろうという憶測

から、後回しになるのです。

正念場でした。

 

同僚が次々に帰る中、19時20時と時間が過ぎ、なかなか進まない案件とにらめっこの

時期も、離れた席で、電話したり、パソコンに向かう テディベアはいました。

別に何も言わず、何か仕事を片付けているようでしたが、見ていたのです。

黙って挨拶だけして帰る時が2日程続くと、

横に座れと彼はいい、電話を取り、強い口調で、なぜ、私に協力しないのかと

他部署に詰め寄りました。案件の大きさなどを説明し、相手に断らせない言い方

でした。

更に海外の協力が必要な場合は、海外の偉い人の携帯に電話、その後確認のメールと、

解決する方法を自分でして教えてくれました。メールにはccで私も入っていました。

何年も仕事していながらおかしな話ですが、

英語でのメールの打ち方は、きちんと習った訳でもなく、

日本人先輩の真似ごとでみな済ませていたので、

書き方一つにしても、勉強になりました。

英語にただ訳すだけではないのです。

ポイントをつき、相手に了解してもらうように書くのです。

そして必要最小限の人達に送る。誰に送るか、これもポイントです。

こういう、滅多にしないフォローを上司がすると、

今まで非協力的な人達も協力してくれるようになりました。

 

素早い解決

外国人同士は、どこに居てもすぐ連絡をとり、なんでもすぐ決めます。

キーになる人を知っていればいいのです。いや、知っておかなければならないのです。

人だと思いました。

ネットワーク。

一歩先に進む方法を覚えた私は、とにかく、ネットワーク作りを大切にしました。

 

外国人ネットワーク独特の、海外からの案件もありました。

そういう案件は、お客様の担当も外国人、それも社長などでしたが、

どんどん関わらせてくれました。

外国人たちは、社内もお客様も、私の年齢や性別より、要求を的確に理解し、

それに素早く対応できることを重視したのです。

それができれば、私でもいいのです。

お陰で度胸がついて、後々、有名日系企業の重役でも、

海外で日系企業現地法人の社長でもひるむことなく、仕事をこなせました。

テディベアは、私が成長するように、少しずつバーを上げていってくれたのです。

 

部下を育てるという事、上司というのはこうなんだな、

いつかこうなりたいな、と思うようになりました。

 

今日はこの辺で。

今日も読んでくださって、ありがとうございました。

大穴狙いはなし、育てる。

人も仕事も育てる

 

東京では上司を含め、同僚たちは私を一人前のビジネスパーソンとして扱ってくれまし

た。もちろん営業は初めてで学ぶことは沢山ありますが、数か月後には一人前になって

仕事を取ってくるという前提です。

その会社のそのポジションにいる人間として、扱いが一人前でした。

見下した言葉とか、お茶をいれるとか、お使いとか、そんな期待は全くありません。

一人前として数字を持ってくる責任があるだけです。

当時20代後半でしたが、30代、40代の先輩も数字を持ってくるという責任は同じ。

ただ、そのために基本的なことを教わる時間は充分貰えましたし、

上司は遠くからじっと、自分なり仕事をこなそうとする私を見守ってくれました。

歯痒い時もあったと思いますが、こちらから助けを求めるまで、

何も言いませんでした。

 

彼は時々、何人かの同僚に私の様子を聞いたり、

面倒見のいい同僚には、しばらくの間、少し私の面倒を見てほしいと言ってたよう

ですが、それは後で知った事でした。

そういうやり方で、育ててもらったんだと思います。

マイペースの私には、とても有難かったです。

その時間のお陰で、と後々になって思いました。

私には一番合ったやり方だと、上司は知ってたんだと思います。

 

振り返って後々思えば、彼はとてもいいマネージャーですが、

当時は、クマみたいに大きな外国人、物知りで、観察と細かい分析を好んで、

日本語も会社では話さないけどほとんど理解してるらしい、だって恋人は日本人、

とう風な感じで、気軽に近づきがたい存在でした。

 

私を例える時、

この子は何かをやり遂げようとしてる時、黙ってソワソワ下準備して、

そして確実にやる、そして育てる、こう言いました。

そこには、少しは途中経過を報告してもいいのに、という意味もあったよう

ですが、結果オーライでした。

ソワソワ準備、聞いて笑いましたが、恐らく見ていたら、そうだったと思います。

アポ、プレゼン、金額を提示する準備、ワクワクして他部署と調整しながら準備

しました。

彼がそういうのは、3か月後に大きな案件があるからと、その仕事を取るために

接待費用を要求する先輩たちと比較して全然違う、という意味もあったようです。

小さくても、仕事を取ってくるということを評価してくれたのです。

 

私はとにかく、小さな単発の仕事を頂き、それに満足してもらったお客様から

小さな規模のレギュラーの仕事をもらうというやり方をしていました。

このやり方で、着実にお客様を増やしていけましたが、

お客さんの最大の仕事のパートナーにはなれず、

一歩手前で足踏みしていた時期もあります。

このお客様、という代表顧客を取れずにいた時期です。

それでも、自分なりに考えていることはありました。

 

あの有名企業の仕事を頂けるという規模の仕事は、

年一回の入札時期を逃したら、また来年なのです。

ただ、そういう仕事を取るために、日系の同業他社たちは社長自ら営業しますし、

今期仕事をさせてもらってるところは、来期を他社に取られまいと死守します。

新規の企業が入り込むのは非常に難しく、まして、外資系企業が入り込む余地は、

ほぼ皆無ということも、当時はありました。

そもそも、入札にさえ呼んでくれない、という有名企業は多々ありました。

 

先輩たちは一発逆転狙いで、毎年こういうところを狙うのですが、

呼んでもらえる有名企業は数社。

当たると大きい大穴狙いですが、外すと何もなし、

勝つ業者より負ける業者のほうがはるかに多いのです。

 

どうしたら、勝てるのかな?

勝てない勝負にかけることはないじゃん。

 

大きな仕事は欲しいけど、私はそう思って見ていました。

そもそも、逆の立場になった場合、どうなんだろう?

 

実績がない業者に、大きな仕事を来期から、例えば3月31日までゼロのものを、

4月1日から全部任せる事ができるのかな?

私は正直、できないなと思っていました。

 

そして、実績がない業者に事を変える場合、

大きな理由は、値段が今よりはるかに安い、安いだけでは、新規業者には変えません。

そして、変えるきっかけとして考えられるのは、

現在の業者が、致命的な大きなミスをした、という場合です。

仕事の容量が増え、新しい業者を使わないと仕事が回らない、という良い理由も

考えられますが、そういう理由は滅多にありません。仕事量が増えても、

既存の業者は他の小さな仕事を落としてでも、その仕事を他社に渡さないからです。

 

そして、もう一つ、値段でとった仕事は値段で奪われるというのも感じていました。

では、どうしたら、せっかくのお客様を失わないですむか。

 

信頼、まずは認めてもらうこと。

業界最安値でなくても、ここならサービスがいいからと安心してもらえること。

こう自分なりに答えをもっていたので、大穴狙いは無しでした。

でも心には、大きなお客様が欲しいという思いもありましたし、

上司からも、そろそろ大きな良いお客さんが必要な時期だ、と言われました。

これは会社が予算を達成するため、の言葉ではなく、

大きな顧客を持つことで、営業として成長することができるし、

その必要があるという意味でした。それは自分でも理解していました。

 

どのお客様も大切とはいえ、大きな組織相手の仕事、大きな金額が動く仕事、

大人数が関わる仕事は、小規模の場合と異なり、想定外の事態や緊急事態の対応、等、

危機管理体制を整える必要などがありました。仮に損害となると、大きな金額になる

のです。色々考えると、正直ひるむところもありましたが、成長するためにも、

大きな仕事がしたいと思い始めました。

 

そして、それは、小さな一件の見積もり依頼から始まりました。

どうせもらえない仕事、冷やかしの見積もりだからと、

花型先輩が振ってきたのです。

私は、その会社がどんなポテンシャルを持っているのか知らなかったけど、

とにかく新しい案件と聞いて嬉しく、喜んで引き受けました。

その時こそ初めて、遠くから見て見ぬふりだった上司が強力に、バックアップして

くれた時でした。

でもその時は、急に眼を光らせてきた、クマのような大きな体の上司が、怖く感じてい

ました。指導というより、一つ一つ、私のやってることを指摘、訂正される、

と思ったのです。まだ、自分のスタイルに全く自信がない時でした。

 

今日はこの辺で。

読んでくださって、ありがとうございました。

 

ブルーオーシャン

今まで誰も注目してなかったエリアというのは、

少し手をつけると、ぐんと成果がでるものです。

私の場合もそうだったと思います。

社内で新しくタイ担当のポジションができ、そこに配置されましたが、

花型の香港、シンガポール、マレーシアを担当する先輩たちにはライバルと思われず、

というか相手にもされず、田舎から上京してきた営業未経験の子、

東京を知らなくて営業できるのか、

すぐ田舎に帰るかな、くらいの扱いでした。

お陰で、下手にマークされることもなく、伸び伸びと日々営業でした。

今とは違い、KPIも、マニュアルもほとんどない時代。

お客さんのところに直行で昼頃に遊びに行って、

夕方飲みに行って仕事をつなぐ、というスタイルが割とまかり通っていました。

 

そして外資系ではあったものの、営業目標もあるようでなく、

連続で目標達成できなくても、席がないという事は皆無で、

採用されてしまえば、みんな結構好き勝手でした。

それでも、接待などで経費がかさみ、赤字の仕事もとってくる状況は、

外国人上司達には理解しがたい状況で、日本人と外国人の間には溝がありました。

 

業務出身の私は、花型エリア担当の先輩グループから相手にされないので、

ゴルフや飲み会にも誘われず、おかげで同じやり方をまねる必要もなく、

のびのび仕事していました。

 

当時まだ目新しいノートパソコンを毎日持ち歩き、

お客様にサービスを徹底して説明し、

メリット、デメリットをはっきりさせてから、良かったら買ってもらうということを繰

り返していました。

ドイツ人上司から教わったスタイルです。

先輩たちからは、今更客は話を聞かない、と笑われましたが、

これがなかなか手ごたえがあって、面白いのです。 

 

朝2社、午後から3~4社、別に毎日の訪問数の決まりもなかったのですが、

振り返るとこういう日々でした。

外出先では無料wifiも、メールをチェックできるような場所もない時代です。

義務ではなくても、夕方会社に戻ってメールチェックをすると夜、

という日も少なくありませんでした。

 

営業のフロアには、ほとんど誰もいないという日もありましたが、

ちょっと離れた場所から、英語で電話する上司はいました。

あ、こっちは夕方があっちは朝だからね、なのですが、

今思えば、遠くから、慣れないけどソワソワ仕事してる私を見ていたのです。

電話で話す様子や、雰囲気などから、色々感じ取ってたんですね。

後々、私も外国で同じことをするとは、その時思わなかったのですが、

そうやって、人を観察して理解した上で、色々アドバイスするやり方です。

 

こういう、勉強しながらも楽しい営業の日々が過ぎていくと、

『あんまり頑張りすぎると続かないよ』、とか、『息抜きの方法も覚える時期だ』、

と急に言われるようになりました。あれ?そうなのかな、と思うと同時に、

気にされる存在になてきたのかな?とも思いました。

そっか、ここは息抜きではなく頑張り時、カンでそう思いました。

 

でもそんなことより、業界で20代女性営業が珍しく、まだ業界でプレゼンをする

営業が少なかった時代にパソコンを持ち歩き、お客様に見てもらうというのが、

何となくカッコよく感じて、楽しいのです。

幸い、お客さんにも新鮮だったようで、このスタイルが好きな担当者には、

とても受け入れられました。そして、今までと違った客層として、

どんどん増えていきました。接待より、コスト削減を含めた業務改善を重視するお客様

です。外国人上司たちも好きな客層でした。

 

会社は接待なしで仕事を頂けるし、

それ以上に、お客様は会社が提供するサービスを十分理解した上で、

購入してくれるのです。

本当の意味でのお客様でした。

サービスを理解してくれ、使うメリットを納得したお客様たちは、

固定客として定着し、有難いことに、別のお客さんを紹介してくれるという、

恵まれた状況にもなりました。

 

そして、外国人上司の読み道り、タイと日本の経済関係が進み始め、

1年、一年半後には、社内のタイ関連の売り上げの伸び、何?という状況になりまし

た。 一度、タイに行ってみたら、とお客様にも言われはじめ、

社内でもそんな風に言う人がでてきました。

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遊びでも行ったことがないけど、でも一度、観光にでも行ってみたいな、

その時は、その程度の思いでした。 

 今日はこの辺で。

最後まで読んでいただいて、ありがとうございました。💕

 

 

東京

営業での日々

東京での日々は仕事、仕事、の毎日でした。

でもオフィスに外国人のいる自由な雰囲気は心地よくて、

毎日楽しく、私はのびのび仕事しました。

社長以下、各部署の長は外国人、他にも外国人スタッフがいて、

オフィスは空間が大きくて仕切りがなくオープンな雰囲気、

気分転換にコーヒー片手に歩いておしゃべり、もよく見る風景でした。

 

こういう何気ない雰囲気に慣れる事が、後々外国人と働くときに役立ちました

コーヒー片手に冗談をいって笑ってるだけと思ってたのですが、

実はその合間に大事な案件を決めてたり、次の打ち合わせの時間を決めてたり、等、

small talkが物を言うのです。

 

これができる関係になると、社内の重要人物が来た時、ちょっと読んでもらえたり、

社内の新しい案件に絡ませてもらえたり、等、色々面白いことが起こるのです。

多分日本人が、ちょと一杯どう? から始まって、

帰り際に、そういえばあの件さ、というのと同じです。

20代後半の日々です。

 

あ、それと。

外国人たちは英語しか話さないけど、実は日本語を理解してるということも。

だから日本で、部署の長としてやっていけるのです。

多分、当時の私の話す下手な英語より、普段の日本語での会話を聞いて何を考えてるのかとかどういう性格かとか、理解してたのだと思います。

これは、私が後々海外で働くとき、彼らと同じ立場になった時、役立ちました。

現地の同僚たちの言ってることを理解できなければ、上手く仕事できないということ。

ひそひそ話や、ちょっとした事にいう言葉を理解できればできるほど、

その人を理解できて、上手くチームとして働けるのです。

 

今日はこの辺で。ありがとうございました。

 

 

 

始まり。

ほら、日本より大きな国なんだよ。*

地図を見せて当時の上司が言いました。

大きなドイツ人。この言葉が、タイと関わる始まりでした。

社内でタイ担当になるのです。そのために上京して、そしてそれがきかっけで後々他の国々との縁もいただくことになりました。

 

タイの地図

  

タイは4番目に日系企業の数が多い国です。**

タイへの投資が一番大きいのは長年にわたり日本。経済だけでなく皇室の交流も深く、二か国の関係は経済だけではない深いものです。

そうはいっても私は関係ない、という方もいらっしゃるでしょうが、

車の部品、携帯の部品、等、気付かぬうちにタイから身の回りに来てる物は多いです。

あのブランドのシャンプーもヘアカラーも、タイから来てるものがあります。

そのiphoneのパーツは、電話を分解しても名前は出てきませんが、

日系企業のタイ工場で作られたものもあります。

今ではこんなに身近なタイですが、私が最初に仕事で関わった頃は、

まだまだ日系企業が進出し始めた頃でした。

アジアの貿易相手国として、当時は香港、マレーシア、シンガポールが花型の国々。

社内でも既に先輩方が担当していて、時代の流れに乗って、

営業しなくても仕事がある時期でした。

『タイ、何それ?』

『タイなんて担当するの、何もないよ。』

『外国人の上司は何も分かってないからね。』

担当と決まって色々言われました。

先輩たちは接待を繰り返し、

有名企業と取引きしたさに儲からない赤字の仕事を引き受け大きな顔、

そんなことも外資系企業ながら、まだ残っていました。

会社は利益を上げたいのに、日本式ビジネスは赤字でも仕事を取って数年信頼関係を高めてから徐々に儲けるのだ、と主張する先輩たち。

そうならいいのですが、赤字で取った新規の仕事は赤字のまま、

値段を上げると他社に取られてしまうのです。

結果、会社が他で作った利益を削り続け、上層部の外国人達は頭を抱えていました。

日本ビジネスはそうなのか?そうじゃないだろ、でもそうなのか?という時でした。

 

*タイの面積は日本の1.4倍です。

**最新データ平成29年、外務省

記憶を紐とく

海外での経験をブログに書きまーすと言ったものの、いざ書こうとなると、何からどう書こうか、なかなか先に進まない。

振り返ると約10年弱の海外生活といえば聞こえはいいかもだけど、一日一日仕事の積み重ねで振り返ると10年弱になってました、それが本当のところです。いつも思ってたのは、どこの国にいても同じ。移動か会社事務所かお客さんのとこかジム。そして仕事の関係者と食事。

それでも書こうと決めてから色々振り返ってみると、今まで思い出しもしなかったことを思い出すようになりました。仕事のために居るのだから、仕事優先。なのでいちいち記録してなかった日常のちょっとした出来事、あっと思った事。それを少しづつでも今思い出して、断片的にでも記していこうと思います。

不定期になるかと思いますが、料理の記事と合わせて、宜しくお願い致します。

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